「沼正三と天野哲夫 ある覆面作家の素顔をめぐって」 本論1章は、以下の如く 安東泉「『家畜人ヤプー』について」 (「えろちか」1970年6月号)からの 引用で始まります。 ************************** 「沼正三とは、最初から仮構されたフィクション上の 人格として設定されているのであり まさしくその人格は今も現存し生きてはいるが 生身の身体をもって現れる素顔の沼正三は 実在しようもない。 この沼正三のフィクションと、 『ヤプー』の仮想世界の強靭性は 重要に関連しあっており、 その均衡がこわされたとき 『ヤプー』の神話もまた崩壊する」 **************************
「沼正三と天野哲夫」の筆者が "当初から虚構の存在として構築されてきた「沼正三」" と言い立てるのは、 あるいはこうした言説を根拠とするのかもしれませんね。
この文章も、もっともらしく書いてはあるが、 「最初から仮構されたフィクション上の人格として設定されている」 とはどういう意味なのでしょうか。 批評(4)で申し述べましたように、 「沼正三が」《奇ク》に登場しました当初、 「沼正三」なる人物の実在を疑う者はいなかったでしょう。
もちろん「沼正三」はペンネームでありますから 「沼正三」という名前の人物が存在するわけではなく その意味でなら、「沼正三」とは 「仮構されたフィクション上の人格」ではありましょう。 しかし、そんなことを言えば、 ペンネームを使って執筆する文筆家は 全て「実在しようもない」ことにならないでしょうか。
例えば、「三島由紀夫」はペンネームだから 「三島由紀夫」とは 「仮構されたフィクション上の人格」ではありましょう。 でも、「三島由紀夫」の名で執筆した、生身の身体をもって現れる素顔の三島由紀夫=平岡公威が 「実在しようもない」とは言えないでしょう。 実在しない人物がモノを書けるわけがないから。
つまりは、 「三島由紀夫」という人格は、 実在する「平岡公威」という人格とは別モノだ、 そして、同じように 「沼正三」という人格は、 実在する生身の人物=素顔の「沼正三」とは別人格だ ということをおっしゃりたいのでしょうか。
でも、そんなことを指摘して、 一体何がわかるというのでしょうか?
あるいは、これは、普通の文芸なら通じる論理かもしれません。
Aという実在の人物が、Bというペンネームの許に A自身の思想・感情とは異なる思想・感情を表現する ということはありうるからです。
「素顔の沼正三」はマゾでもなんでもないけれど 「沼正三」というペンネームでマゾ小説を書いた、 ということは論理的にはあり得るでしょう。
例えばの話、団鬼六はサディズム作家ですが、 「素顔の団鬼六」はサディストではない、 とも言われております。
従って、そうしたことは一般的には妥当するかも しれません。 しかし、「沼正三」とは 『ヤプー』なるフィクションの作家であると同時に 『ある夢想家の手帖から』なる随筆の書き手でもあります。 『ある夢想家の手帖から』で表現されているのは まさに「素顔の沼正三」の思想・感情でありましょう。
"この沼正三のフィクションと、 『ヤプー』の仮想世界の強靭性は 重要に関連しあっており、 その均衡がこわされたとき 『ヤプー』の神話もまた崩壊する"
というのも、意味がようわからん。
安東泉氏がそのように思い、感じたことは わかりましたが、 なぜそう思い、感じたのか、 その根拠が記されていないので 彼の単なる「感想」に過ぎないと 言わざるをえません。
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