さて。 この"「沼正三と天野哲夫」批評"の目的は 当該論文そのものを批評することだけでありません。
愚仙人の観ずるところ、 論文の筆者は沼正三やマゾヒズムの理解者とは言い難い。
愚仙人、そんな筆者の言説に触れることによって、逆に 「なるほど世間では『ヤプー』はこういう風に思われているのか」 とか 「世間の皆様は沼正三についてこういう角度から関心を寄せているのか」 という風に、 非マゾヒストの皆様の見方・考え方・感じ方を知ることができます。
そうした、世間の皆様の見方・考え方・感じ方が、 沼正三が読者として想定したマゾヒストの見方・考え方・感じ方とどのように異なるのかを論評したいというのも、 "「沼正三と天野哲夫」批評"の目的のひとつでございます。
当該論文 1章 冒頭引用(エピグラフ)につづく 論文としての実質的な1文目は、 上記、第二の目的に適うものでございます。
************************** マゾヒストの幻想百科事典ともいうべき小説『家畜人ヤプー』が論じられる際、沼正三という覆面作家の神秘性に触れられることが通例である。 *************************** なるほど。 世間では『ヤプー』は「マゾヒストの幻想百科事典ともいうべき小説」と思われているのですね。
しかし、愚仙人はこれに異を唱えたい。 「百科事典」であるなら、マゾヒストの幻想を網羅的に 描写しなてはならないでしょうが、『ヤプー』に描かれているのは、あくまでも作者・沼正三のマゾヒズムでございます。 沼のマゾヒズムについては網羅的に描かれていますが、今や、マゾヒストの幻想の王道とも呼ぶべき存在となった、縛り・ロウソク・浣腸・などは、沼のマゾヒズムには含まれておらず、従って『ヤプー』にも登場しません。
そして、また、世間の皆様が『ヤプー』を論じるにあたって、沼正三の神秘性に触れるのが通例なのだということもわかりました。
それは、世間の皆様が、沼流マゾヒストではないので、『ヤプー』のマゾヒズム小説としての面白さを理解できず、その方面からの論評ができないことの裏返しでございましょう。
『ヤプー』はそうした「通例」の方々以外の人たちを対象にした小説なのでございます。
|
|