昨日は、 「沼正三と天野哲夫 ある覆面作家の素顔をめぐって」 の冒頭【要旨】について疑問に思うところを記しました。
本日からは「はじめに」以下、本文の内容を検討していきましょう。
さて、「はじめに」にも、昨日の【要旨】について 述べましたのと全く同じ疑問点があるんもでございます。
即ち "当初から虚構の存在として構築されてきた「沼正三」が、現実に存在する個人として錯覚され、語られてきたのは何故かという点を考察していく”
と書かれておりますが、論者は何をもって 沼正三が"当初から虚構の存在として構築されてきた" と述べているのでありましょうか?
沼の「奇譚クラブ」への初投稿は、 1953年4月号。
芳野眉美の「女の尿が飲みたい」という切実な願望に応えての「神の酒(ネクタール)を手にいれる方法」という記事でございました。
つづいて、 同年5月号 「足舐め小説 マゾヒストの会」。 そして 同年6月号「あるマゾヒストの手帖から」の連載開始へとつながっていくのでございました。
当時、沼正三が「現実に存在する個人」であることを 疑う者はいなかったでしょう。
それにもかかわらず
そもそも、天野哲夫が 「沼とは複数の書き手が創り上げた仮想人格だ」 なんて言い出す前まで、 沼を「虚構の存在」と疑う者など いなかったでしょう。
「現実に存在する個人として認識し、語るのは 錯覚によるものだ」 と言いたいのなら、 「沼正三は当初から虚構の存在として構築されてきた」 とはどういう意味なのか。
「現実に存在する個人として認識し、語る」 という錯覚は、なぜ生まれたのか。
といったことを論じなければならないはずなのに、 それがさっぱり論じられてない。
だから、もどかしいと申しますか、 隔靴掻痒の感が深いのでございます。
肝心の所が論じられてないのでは、 何も論じてないのと同じではないですか? |
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