近況報告

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...... 2025年10月23日 の日記 ......
■ 「沼正三と天野哲夫」批評(4)     [ NO. 2025102301-1 ]
昨日は、
「沼正三と天野哲夫 ある覆面作家の素顔をめぐって」
の冒頭【要旨】について疑問に思うところを記しました。

本日からは「はじめに」以下、本文の内容を検討していきましょう。

さて、「はじめに」にも、昨日の【要旨】について
述べましたのと全く同じ疑問点があるんもでございます。

即ち
"当初から虚構の存在として構築されてきた「沼正三」が、現実に存在する個人として錯覚され、語られてきたのは何故かという点を考察していく”

と書かれておりますが、論者は何をもって
沼正三が"当初から虚構の存在として構築されてきた"
と述べているのでありましょうか?

沼の「奇譚クラブ」への初投稿は、
1953年4月号。

芳野眉美の「女の尿が飲みたい」という切実な願望に応えての「神の酒(ネクタール)を手にいれる方法」という記事でございました。

つづいて、
同年5月号 「足舐め小説 マゾヒストの会」。
そして
同年6月号「あるマゾヒストの手帖から」の連載開始へとつながっていくのでございました。

当時、沼正三が「現実に存在する個人」であることを
疑う者はいなかったでしょう。

それにもかかわらず

そもそも、天野哲夫が
「沼とは複数の書き手が創り上げた仮想人格だ」
なんて言い出す前まで、
沼を「虚構の存在」と疑う者など
いなかったでしょう。


「現実に存在する個人として認識し、語るのは
錯覚によるものだ」
と言いたいのなら、
「沼正三は当初から虚構の存在として構築されてきた」
とはどういう意味なのか。

「現実に存在する個人として認識し、語る」
という錯覚は、なぜ生まれたのか。

といったことを論じなければならないはずなのに、
それがさっぱり論じられてない。

だから、もどかしいと申しますか、
隔靴掻痒の感が深いのでございます。

肝心の所が論じられてないのでは、
何も論じてないのと同じではないですか?

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