鈴木真吾さんの論文 「沼正三と天野哲夫 ある覆面作家の素顔をめぐって」 の一番の問題は、 彼がよって立つ仮説について、 なぜその仮説が成り立つのかという、 論文に於いて一番大切であるはずの言説を 最後まで避けている、というか、 できないで終わっていることでございます。
その仮説とは、
「沼正三とは、一人の人間ではなく 複数の人間によって構築された 仮説人格である」
という見解であります。
彼自身の言葉によると、
"沼は実在する一作家、あるいは一個人ではない というのが本論における私の見解である"
ということになります。
言い換えれば『ヤプー』も『手帖』も合作だ、 と言っているのですね。
当該論文の【要旨】には
”元来、仮想の人格を持った架空の人物として 設定されていた「沼正三」”
という文言があり、 同様の文言は、当該論文の各所に見られます。
「沼正三」がペンネームである限りにおいて 「沼正三とは、仮説の人格を持った 架空の人物として設定されていた」 とは言えるのは、ちょうど「馬仙人」が 「仮説の人格を持った架空の人物(?)」として設定 されているのと同様ですわな。
しかし、そのことから「沼正三」は複数の人物が 構成する仮想人格であるとは当然には言えないのは、 「馬仙人」が複数の人物が構成する仮想人格で あるとは言えないのと同様であります。
「沼正三は元来、仮説の人格を持った架空の人物として 設定されていた」という事実から、どうして 「沼正三は実在する一作家あるいは一個人ではない」 という「見解」が導き出せるのか という肝心の所には全く触れられておらず、 従って、 "「沼正三」が、何故、現実に存在する一個人である という前提で語られてきたのかという点を問題にしつつ"と言いながら、その「問題」に全く答えては いないのであります。
"不特定多数の匿名者たちによって行われた 手紙のやりとりの中から、 沼の博学的知識や『ヤプー』が生まれたといっても 過言ではないだろう" と述べていますが、 そんなの、 あまりに過言過ぎると言っても過言ではないだろう。
"沼の正体を巡る議論の多くが、 『ヤプー』を理解する うえで重要な副読本となりうる 『ある夢想家の手帖から』に言及してこなかった" と言っていますが、 その『ある夢想家の手帖から』第6巻あとがきには
「その人にしか書けぬものをエッセイと呼ぶのだそうだが、その定義を使うなら、本書は『家畜人ヤプー』を書いた沼正三という仮説人格者のエッセイである」
と記されております。 エッセイとは、その人一個人にしか書けないと 沼正三自身が語っているではないですか。
”――「沼正三」 とは、仮想の人格を設定された、テクストの 中を縦横無尽に暗躍する夢想家、あるいは 「沼正三」という作者名を持つ人物、それ自 体がひとつのテクストである”
なんて、気取った、わけのわからん (多分。書いた人もようわかってない) ブンガク的修辞を書く紙幅があったら、 もっと論文らしい「見解の根拠」に 費やして欲しいものであると 思われてならないのであります。
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